2019年05月29日

未来予想図はほうら、おもっととおりにはいかないがそこそこ愉快な現在さとブログをおねおね

インターネットラジオ 漢方おねおね放送局10周年記念コントライヴ

三木あきら関本佳史コントライヴ「おねおねだね」
会場 大阪市中央区千日前2-3-9味園ビル2Fライヴシアター白鯨
2019年6月22日土曜日
開場19時開演19時30分
出演者 三木あきら 関本佳史
前売り2000円 当日2600円 共にワンドリンク付き
おねおねとしたオムニバスコントと漢方おねおね放送局の公開収録
お問い合わせ先 zubuno_zubuno@yahoo.co.jp

ツ離れしたいな。依然ツ離れしないからツ離れしたいな、といっているわけです。

未来予想図という歌があります。私には実にしゃらくさい歌ですが、名曲といわれるのもうなづけます。卒業してからもう3度目の春。
実に若者の心とらえていますな。それが大学なのか、専門学校なのか、サラリーマンなのか、勤めでも学生でもない立場なのか、そこはわかりませんが、新しい生活をむかえ、少しその生活がなれたころに昔を思う、そういうのはあるのです。
この未来予想図という歌をうたっているのがドリームカムトゥルー。通称ドリーファンク。嘘。ドリーファンクはプロレスラー。ドリームカムトゥルーはドリカムといわれています。
 ドリカムの曲はなにやら写真というワードが多くでてくる気がします。詳しくは検索してください。

ここから何が言えるかというと、80年代90年代は写真が特別だっということです。特別な時に特別な瞬間を切り取る。それが写真だっとのです。銀塩とよばれた昔ながらの機械式のフィルムのカメラ、高価なカメラをかわずして比較的安価で購入することができた「映るんです」をはじめとするインスタントカメラ、ポラロイド、さまざま様式のカメラがあったが、どうころんでもカメラであった。現像するには金がかかる。デジタルカメラで現像は自宅でできるとなってもそこまでカメラが日常に根付くことはなかった。
 写真が生活の一部になった背景には、スマートホン、そこからくるインターネットにおける写真のアップがあるだろう。

 写真は撮影だけでは終わらない。やはり発表したいのだ。現像して学校、会社など、属する社会で見せる。それはそれで幸福なのだが、発表に手間がかかる。SNSは発表が容易だ。現像しなくていいし、持ち運ばなくてもいい。

 今、ドリカムが歌ったほどに写真は特別ではなくなった。そこの未来予想はできなかったわけだ。だが、30年前にこの写真の世界の広がりを予想できるわけがない。

 自分で自分をとる。いかようにうつるか。これ、ここに自意識がでる。
 自分がいい感じに映る角度を意識し、自分でとる。そこに自分がいる。
 自分が何時何をしたかを表現し、発表する。そのときの顔だ。
 海に行ったときの自分の顔、ユニバーサルスタジオジャパンにいったときの自分の顔。だいたいが顔だ。ユニバーサルスタジオジャパンで一日歩いて臭くて臭くてしょうがなくなった自分の足の裏を写真にとり発表する人はあまりいないし、いたとしてもあまり人気ものにはならないだろうし、そんなことしてなにが楽しいのかよくわからない。
 ようは顔なのだ。

 私はあまり写真をとらない。顔もとらないし、自分というものをあまりとらない。そしてそれをツイッターにもあまりあげない。意図的にとってあげるときはあるが、それはかなりあざとい顔になっている。なぜなら自意識がすごいから。自分の顔をとって得意気になってるところを人に見られるのが恥ずかしいじゃないか。

 

 優しい人とはなんだろう。いろんな考え方がある。一つではない。自分以外のだれかの写真をたくさんとれる人、それはなんだか優しいような気がするのだ。ひとの結婚式の写真を撮影して、それを新郎新婦に現像するなりデータなりで渡せるひと、そんな人がいるのだ、この世に。
それはとても優しい。ケーキカットの写真がどうしたというのだ、なんてことを思う私は邪悪。ケーキを作るならわかるが、切るだけで何を値打ちこいとるねん。ま、絶好のシャッターチャンスやと司会の方がいうから、こういうのはスマホでいいから撮影に行こうとするのが大人なんだろうとおもい、近くにまでいくが、正味の話結婚式の時私はべろべろによっていて、帰りゲームセンターでも行こうかなんてことを考えているのだ。

 なぜ私は帰り道にゲームセンターによるのだろう。すること言えばクレーンゲームだけなのに。

 ゲームセンターにプリクラがある。
 あれ楽しいか、と思うが、これからプリクラをとろうとする人は幸福そうな顔している。財布をおとしたという顔の人はあまりゲームセンターにいかないし、プリクラにお金を投じようとはしない。
 
 いろいろいったが、何が言いたいかというと、写真をとる人はやはり幸福なのだろう、と思う。写真をとらない人生よりもとる人生のほうがなにやら幸福な気がするのだ。写真と縁遠いから不幸というわけではないが。

 私の若いころの写真は少ない。ほんと少ない。こんな性根だからおのず少ない。
 ふと思うのだ。私は昔からこんなに足の裏ががさがさだったのだろうか、と。足の裏の写真をとっておけばよかった。
 斉藤和義さんの僕の踵はなかなか減らない、という名曲がある。歌詞はいまいち何を言いたいのかわからないが、なにせ恰好がいい。そして踵が減らないのだ、きっと。転じて私のかかとはがさがさのがちがちだ。このがちがちのがさがさの踵を写真いとってアップしようか。しないよ。踵をアップしようという自意識。これもこれで厄介じゃないか。ぐるぐると思うわりにものぐさな人間はことに写真をとらない。

 それはそうと、なによりかにより、コントライヴの予約コメントおまちしております。












posted by 関本佳史 at 00:21| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月28日

屋外の広い喫煙スペースで何が行われているかをおねおね

インターネットラジオ 漢方おねおね放送局10周年記念コントライヴ

三木あきら関本佳史コントライヴ「おねおねだね
会場 大阪市中央区千日前2-3-9味園ビル2Fライヴシアター白鯨
2019年6月22日土曜日
開場19時開演19時30分
出演者 三木あきら 関本佳史
前売り2000円 当日2600円 共にワンドリンク付き
おねおねとしたオムニバスコントと漢方おねおね放送局の公開収録
お問い合わせ先 zubuno_zubuno@yahoo.co.jp

という告知を書きたくて久しぶりにブログを書く。

こんばんわ、お元気ですか、いろいろあったけど私は元気です。元気か、ま、どうだ、元気だろう。

風呂上がりにチューハイを何杯も飲むとねむくなり、そのまま寝る。それはいいな、いい行為で幸福らしきものがあるが、アルコールの過剰摂取はやがて人間の体を元気にしない方へ導く結果となり、ことはそう単純ではない。

なんてことを街の喫煙スペースで考える。こういうのを考えるというのか、思うというのか、どういうのかわからないがだ。街の喫煙スペース喫煙する。その場合一番多いのは何かをみることである。そして何かを思う。何か見て何かを思う、たばこを吸いながら。街宣車があり、夜の求人が荷台の部分に大きくペイントされたトラックが走る。若者はだいたいスマートホンを触っている、若者ではない方もスマートホンを触っている。などといっている私もスマートホンを触っている。男と女の2人組は何やら話している。男5、6人も何やら話ている。女5人ぐらいの集団というのは少ない。なぜだろうか。女5人、喫煙者だけの女5人というのはなかなかいないのだろうか。

 場所が特定されてしまうかもしれないが、私がよく利用する喫煙スペースでは路傍の商いに精をだす方々がいる。楽器を演奏していたり、歌をうたっていたり、たばこをすっていたらやおら近寄ってきて色紙に書かれた自作の詩をセールスしてくる男性もいる。
「時間あったらこれ読んでみて、よかったら買って」
なにせこっちは時間があるから喫煙所でたばこをすっているわけで、断り辛い。で、その色紙群、ざっと20枚ぐらいの色紙群をみると、よくもまあ、これを500円で販売しようとしたな、なんてことが書かれている。
「くよくよした時ほど微笑みを」
みたいな類だ。はっきり覚えていないが。ケチをつけたいわけじゃない。エネルギッシュだといいたいのだ。特別感のない言葉であれ、路傍でうる意志力、それもセールスだ。色紙をならべているのではない。近寄ってくるのだ。エネルギッシュだ。恥ずかしいほどわかりやすい言葉を売る。それはいいじゃないか。わかりにくい言葉を売りつけられた方がよっぽどこたえる。
「やましいワイパーだ」
なんて色紙に書かれているほうがよっぽど嫌だ。

手続きをふまず、許可を得ずに商売をする人はたくましい。
喫煙スペースにてたばこを1本25円で買い取るという方がいた。段ボールの看板が置かれている。たばこ買い取ります。1本25円とマジックで書かれているのだ。私はたばこを売りたくなったのだ。別段25円がほしかったわけじゃない。25円もらえるかなにももらえないか、といえば25円もらえるほうがいいが、そこまで25円に熱はない。そうじゃないのだ、なんだかたばこを売りたかったのだ。たばこの1本買いというのはなんだか日本じゃないようでなんとなく魅力を感じたのだ。
「大将、これ」
とたばこを1本さしだした。大将はいった。
「お金いらんやら、な、お金なしでいいな、お金ないねん」
「はあ」
私はなにも25円がほしかったわけじゃない。ないが、その、なんだ、ええ、その、えええ、そりゃ、ま、ま、ええけど。お金ないねんってあなたの足元におかれているクッキー缶に小銭あるやんか25円以上の小銭が、、、、、な、、、ま、しかし、車にガソリンがないというとき0ということはない。少しはあるが幾分もないときにガソリンがないという、その手の類なのか、、、まあ、、、、、じゃ、たばこ買いますていうなよ、、、と思ったのだ。

しかし、これ、たばこくださいと書かれていたら、差し出しただろうか。たぶん差し出さない。たばこが惜しいわけではない。ま、少しは惜しいが、金が改ざんしないことによりその人のテリトリーに入り込んでいく気がする。関係性を積極的に作ろうとする行為はなかなかしない。しかし、金が間にはいると、警戒心はやわらぎ好奇心が顔だし少しなんだか得意気になれる。で、売る。すると。
「お金いらんやろ、な、お金なしでいいな、お金ないねん」
とくる。

このおじさんはそういうのを熟知しているのかもしれない。私は行動経済学のイロハのイ、一丁目一番地に動かされたのだ。
「あかん、金いるわ」
と言いかえすことができる人もまた、なんだかたくましい気もする。

















posted by 関本佳史 at 01:01| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月25日

現実は細部の塊だねとブログをおねおね

インターネットラジオ 漢方おねおね放送局10周年記念コントライヴ

三木あきら関本佳史コントライヴ「おねおねだね
会場 大阪市中央区千日前2-3-9味園ビル2Fライヴシアター白鯨
2019年6月22日土曜日
開場19時開演19時30分
出演者 三木あきら 関本佳史
前売り2000円 当日2600円 共にワンドリンク付き
おねおねとしたオムニバスコントと漢方おねおね放送局の公開収録
お問い合わせ先 zubuno_zubuno@yahoo.co.jp

という告知を書きたくて久しぶりにブログを書く。

とんとブログを書かなくなった。
時代は変わる。本当に変わる。広島カープが常勝チームになっていたり、舟木正勝がユーチューバ―になったり、また都構想の選挙があるぞてな話がのぼってきたり。


人間なんてララララララララだ。
おそらくこれは最強に近い言葉である。ほんと。らららららだ。
なにがどうってことの結論はでないままことは進んでいき、擦り傷だらけで毎日を暮していく。あああ、ららららだわな。

それをいいだせば何事も時にぼんやり時に意識的に生きていくしかないじゃなか、という事になる。ま、極端なことをいえばそうだ。

 そこにいきつけばなにもないので、なんせ書く。書くのだ。
 フィクションと現実のことを書く。

 フィクションと現実はどこがちがうのだろうか。決定的に言えることはフィクションは誰かのためにある。そして現実は自分のためにしかないのだ。だから現実はとてもフィクションではおいつけないものがある。リアリティなんて言葉あり、そういうことかもしれない。

 とあるパン屋の店長の話。
 30歳の彼はパン屋根の店長をしていた。規模の大きいパン屋である。関西では有名なチェーンのパン屋の店長。
 そのパン屋で社員旅行があった。彼は参加するとは言っていたが、前日39度の熱がでた。彼は社長に言った。
「明日の社員旅行、行くのやめます」
すると社長はこう怒鳴った。
「社員旅行に行かないのであれば、明日本社ビル全フロア、バルサン炊いとけ」
ま、39度の熱が出ている、という一点だけを除けば理にはかなっている。全社あげての社員旅行、当然ビルにはだれもいない、そりゃバルサン炊くにはその日しかないだろう。その日を逃せばいつバルサンするんだといっても過言ではない。しかし、彼は39度の熱があるのだ。39度の熱がある男に、パン屋の社長がバルサンと怒鳴るか。怒鳴ったのだが。これは偏見だが、サラ金の会社社長が言ったというならさもありなんだが、パン屋の社長のいうセリフか。パンてなんだか幸福の象徴みたいなところがあるのだが、まっこう39度の熱ある男にまっこう殺虫の指示をだすとはこれいかに。
 人間わからないのだ。ある程度の傾向があるとは言えサラ金の社長が野花を愛し、炊き出しに参加してるかもしれない。パン屋の社長はジャムおじさんみたいな温厚な方かと言えばそうでもなかったりする。そうしたもんだ。ジャムおじさんにしろ、ジャムおじさんは夜なにをしているかはわからないのだ。ジャムおじさんもパチンコぐらいしたいだろうし、時にはスナックで酒と涙と男と女を歌いたいときもあるだろう。そうしたもんだ。

 フィクションはどこかにむかっていく。現実はどこにもむかっていない。誰かにきかせるお話しではないから。怪談てのはそうだ。起承転結。聞き手をたのしませようとする。しかし実際はそういうものではない。
 妙な話は起承転結にならないのだ。

 私はある日家についたら部屋中セミだらけだったことはある。10匹はいただろう。窓、玄関があいていたわけではない。なぜだ。
 しかし、そうしたものだ。ただただ妙なだけだ。何か妙な泥棒のいたずらと考えるのが妥当かもしれないが、それにしても部屋のものはなにもなくなっていない。いるだろうか、他人の部屋にセミを話したい願望をもつ人間など。

 そういうのが現実なんだろうな、きっと、よくわからないが。
posted by 関本佳史 at 16:10| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする