2020年02月04日
京橋を歩く歩くとおねおねと
途中、うわ、と私がなっているのは犬の糞を踏みかけたからです。ともしたら踏んでいたのかもしれませんが、暗くてわからなかったのです。匂いをかげばわかったでしょうが、そこまでしませんでした。人の家に行こうとしてるのに、糞がついていてはならんので、とりあえず足をアスファルトにすりながら歩きました。
明るいところでみると靴底はきれいなものでしたが、それがそもそも踏んでいなかったか、アスファルトこすりつけた成果なのかそれはわかりません。ただ一つ確実にわかっていることは、京橋はええとこだっせ、グランシャトーがおまっせというが糞もあるということです。
出演
岡田智久
三木あきら
関本佳史
で、だいちゃん。
だいちゃん。
世の中にはたくさんならだいちゃんがいます。
こちらのだいちゃんはかなり大きなだいちゃんです。
2019年05月29日
ラブソングは素晴らしいがそれだけじゃないよとおねおねとブログ
インターネットラジオ 漢方おねおね放送局10周年記念コントライヴ
三木あきら関本佳史コントライヴ「おねおねだね」
会場 大阪市中央区千日前2-3-9味園ビル2Fライヴシアター白鯨
2019年6月22日土曜日
開場19時開演19時30分
出演者 三木あきら 関本佳史
前売り2000円 当日2600円 共にワンドリンク付き
おねおねとしたオムニバスコントと漢方おねおね放送局の公開収録
お問い合わせ先 zubuno_zubuno@yahoo.co.jp
言いたいことは上記の告知であり、それ以上のことはさして言いたいてなことはないのだが、とはいえ、この駄文がもしや誰かの気をひくことに成功し、ライブのきてもらう、いいライブになる、一躍スターになる、めっちゃもうかる、私は一日に大リーグをみていても生活にこまらない、一日酒を飲む、肝硬変になる、ちょっと酒を控える、たまに飲む、そして幸福な人生だっとぴんぴんころりで死ぬ。葬儀はあってもなくてもいい。だってその時は意識ないし、なくてもいいな、なんて人生を送るスタートになるかもしれないわけでだからこうやっておねおね書く。
なにせ、コントライヴにきてください。
歌というのは素晴らしい、つらいとき歌に助けられるそんなことはあまたある。ほんと、歌は素晴らしい。曲と歌の違いはなんだろうか。そこまで明瞭ではないだろうが歌と呼ばれるものには歌声がある。そしてそれは歌詞と呼ばれる。そんな歌詞に共感したりしなかったり、別段そんな歌詞はそっちのけになったりいろいろだ。
ヒットソングてのはどうして現実離れしていることが多い。
いいや、とても現実ですよ、という異論もあるだろうが、少し考えてほしい。
ヒットソングはだいたいが歌詞が人間関係を歌うことが多い。恋人、友達、エトセトラ。
が、しかし、現実というのは人間関係の間に金という奴がからんでくるのだ。
前前前世からというのはとても素晴らしいが、私にとっては税税金たかいやないか、ということのほうが重大な問題なのだ。ほんまに年金もらえるのかいなあ、なんて曲をAKBが歌ったら私は断然支持する。ま、私以外の人は支持するかどうかはわからないが。
金のことを言うと野暮といわれる。そうなのか。別に金がすべてだとはいわないが、やはり生活には金がいって、勤めというのはとてもしんどくて、金より前に心身ともに健全な状態を優先したほうがいいから、しんどっかり、うっとおしい人がいると、勤めを辞め、そしたらまた金がなくなり、それでも税金はまってはくれない。
責任者でてこい。
体の調子を歌っている歌も少ない。頭痛がどうのぐらいはあるが、頻尿で困るとか、毎日ように整体いかんと腰がつらいとか、なぜ痔は保険が民間の保険の適用外にするのだ、とか。
身体、身体、と私はいう。それはきっと、世界は身体だからだ。だからこそ自分の身をなげうってでも何かを守ろうとする人は美しいのかもしれないが、ただそういう自分の身をなげうつってのはともしたら危うい方々の方便にされる。正直なところ、どんな愛する人と時間をともにできたとしても空腹ならギクシャクするのものなのだ。だから適度に胃になにかが入っているほうがいい。なにかを食べる時間が長くてふたっとしてもそれはそれでまいいんじゃないか、と思うのは中年の戯言、、、、かもしれないが。
最後に娘が4歳の時に歌っていたオリジナルソングを書く。
「ズボンがないからお金がない、お金がないからズボンがない、ズボンがないからお金がない、お金がないからズボンがない、ズボンがないからお金がない、お金がないからズボンがない」をリピート。
実に的を射ている。お金がないとズボンが買えないし、ズボンがないと勤めにもいけない。
ほんに、ほんに。
なによりかにより、
インターネットラジオ 漢方おねおね放送局10周年記念コントライヴ
三木あきら関本佳史コントライヴ「おねおねだね」
会場 大阪市中央区千日前2-3-9味園ビル2Fライヴシアター白鯨
2019年6月22日土曜日
開場19時開演19時30分
出演者 三木あきら 関本佳史
前売り2000円 当日2600円 共にワンドリンク付き
おねおねとしたオムニバスコントと漢方おねおね放送局の公開収録
お問い合わせ先 zubuno_zubuno@yahoo.co.jp
これですよ。
三木あきら関本佳史コントライヴ「おねおねだね」
会場 大阪市中央区千日前2-3-9味園ビル2Fライヴシアター白鯨
2019年6月22日土曜日
開場19時開演19時30分
出演者 三木あきら 関本佳史
前売り2000円 当日2600円 共にワンドリンク付き
おねおねとしたオムニバスコントと漢方おねおね放送局の公開収録
お問い合わせ先 zubuno_zubuno@yahoo.co.jp
言いたいことは上記の告知であり、それ以上のことはさして言いたいてなことはないのだが、とはいえ、この駄文がもしや誰かの気をひくことに成功し、ライブのきてもらう、いいライブになる、一躍スターになる、めっちゃもうかる、私は一日に大リーグをみていても生活にこまらない、一日酒を飲む、肝硬変になる、ちょっと酒を控える、たまに飲む、そして幸福な人生だっとぴんぴんころりで死ぬ。葬儀はあってもなくてもいい。だってその時は意識ないし、なくてもいいな、なんて人生を送るスタートになるかもしれないわけでだからこうやっておねおね書く。
なにせ、コントライヴにきてください。
歌というのは素晴らしい、つらいとき歌に助けられるそんなことはあまたある。ほんと、歌は素晴らしい。曲と歌の違いはなんだろうか。そこまで明瞭ではないだろうが歌と呼ばれるものには歌声がある。そしてそれは歌詞と呼ばれる。そんな歌詞に共感したりしなかったり、別段そんな歌詞はそっちのけになったりいろいろだ。
ヒットソングてのはどうして現実離れしていることが多い。
いいや、とても現実ですよ、という異論もあるだろうが、少し考えてほしい。
ヒットソングはだいたいが歌詞が人間関係を歌うことが多い。恋人、友達、エトセトラ。
が、しかし、現実というのは人間関係の間に金という奴がからんでくるのだ。
前前前世からというのはとても素晴らしいが、私にとっては税税金たかいやないか、ということのほうが重大な問題なのだ。ほんまに年金もらえるのかいなあ、なんて曲をAKBが歌ったら私は断然支持する。ま、私以外の人は支持するかどうかはわからないが。
金のことを言うと野暮といわれる。そうなのか。別に金がすべてだとはいわないが、やはり生活には金がいって、勤めというのはとてもしんどくて、金より前に心身ともに健全な状態を優先したほうがいいから、しんどっかり、うっとおしい人がいると、勤めを辞め、そしたらまた金がなくなり、それでも税金はまってはくれない。
責任者でてこい。
体の調子を歌っている歌も少ない。頭痛がどうのぐらいはあるが、頻尿で困るとか、毎日ように整体いかんと腰がつらいとか、なぜ痔は保険が民間の保険の適用外にするのだ、とか。
身体、身体、と私はいう。それはきっと、世界は身体だからだ。だからこそ自分の身をなげうってでも何かを守ろうとする人は美しいのかもしれないが、ただそういう自分の身をなげうつってのはともしたら危うい方々の方便にされる。正直なところ、どんな愛する人と時間をともにできたとしても空腹ならギクシャクするのものなのだ。だから適度に胃になにかが入っているほうがいい。なにかを食べる時間が長くてふたっとしてもそれはそれでまいいんじゃないか、と思うのは中年の戯言、、、、かもしれないが。
最後に娘が4歳の時に歌っていたオリジナルソングを書く。
「ズボンがないからお金がない、お金がないからズボンがない、ズボンがないからお金がない、お金がないからズボンがない、ズボンがないからお金がない、お金がないからズボンがない」をリピート。
実に的を射ている。お金がないとズボンが買えないし、ズボンがないと勤めにもいけない。
ほんに、ほんに。
なによりかにより、
インターネットラジオ 漢方おねおね放送局10周年記念コントライヴ
三木あきら関本佳史コントライヴ「おねおねだね」
会場 大阪市中央区千日前2-3-9味園ビル2Fライヴシアター白鯨
2019年6月22日土曜日
開場19時開演19時30分
出演者 三木あきら 関本佳史
前売り2000円 当日2600円 共にワンドリンク付き
おねおねとしたオムニバスコントと漢方おねおね放送局の公開収録
お問い合わせ先 zubuno_zubuno@yahoo.co.jp
これですよ。
未来予想図はほうら、おもっととおりにはいかないがそこそこ愉快な現在さとブログをおねおね
インターネットラジオ 漢方おねおね放送局10周年記念コントライヴ
三木あきら関本佳史コントライヴ「おねおねだね」
会場 大阪市中央区千日前2-3-9味園ビル2Fライヴシアター白鯨
2019年6月22日土曜日
開場19時開演19時30分
出演者 三木あきら 関本佳史
前売り2000円 当日2600円 共にワンドリンク付き
おねおねとしたオムニバスコントと漢方おねおね放送局の公開収録
お問い合わせ先 zubuno_zubuno@yahoo.co.jp
ツ離れしたいな。依然ツ離れしないからツ離れしたいな、といっているわけです。
未来予想図という歌があります。私には実にしゃらくさい歌ですが、名曲といわれるのもうなづけます。卒業してからもう3度目の春。
実に若者の心とらえていますな。それが大学なのか、専門学校なのか、サラリーマンなのか、勤めでも学生でもない立場なのか、そこはわかりませんが、新しい生活をむかえ、少しその生活がなれたころに昔を思う、そういうのはあるのです。
この未来予想図という歌をうたっているのがドリームカムトゥルー。通称ドリーファンク。嘘。ドリーファンクはプロレスラー。ドリームカムトゥルーはドリカムといわれています。
ドリカムの曲はなにやら写真というワードが多くでてくる気がします。詳しくは検索してください。
ここから何が言えるかというと、80年代90年代は写真が特別だっということです。特別な時に特別な瞬間を切り取る。それが写真だっとのです。銀塩とよばれた昔ながらの機械式のフィルムのカメラ、高価なカメラをかわずして比較的安価で購入することができた「映るんです」をはじめとするインスタントカメラ、ポラロイド、さまざま様式のカメラがあったが、どうころんでもカメラであった。現像するには金がかかる。デジタルカメラで現像は自宅でできるとなってもそこまでカメラが日常に根付くことはなかった。
写真が生活の一部になった背景には、スマートホン、そこからくるインターネットにおける写真のアップがあるだろう。
写真は撮影だけでは終わらない。やはり発表したいのだ。現像して学校、会社など、属する社会で見せる。それはそれで幸福なのだが、発表に手間がかかる。SNSは発表が容易だ。現像しなくていいし、持ち運ばなくてもいい。
今、ドリカムが歌ったほどに写真は特別ではなくなった。そこの未来予想はできなかったわけだ。だが、30年前にこの写真の世界の広がりを予想できるわけがない。
自分で自分をとる。いかようにうつるか。これ、ここに自意識がでる。
自分がいい感じに映る角度を意識し、自分でとる。そこに自分がいる。
自分が何時何をしたかを表現し、発表する。そのときの顔だ。
海に行ったときの自分の顔、ユニバーサルスタジオジャパンにいったときの自分の顔。だいたいが顔だ。ユニバーサルスタジオジャパンで一日歩いて臭くて臭くてしょうがなくなった自分の足の裏を写真にとり発表する人はあまりいないし、いたとしてもあまり人気ものにはならないだろうし、そんなことしてなにが楽しいのかよくわからない。
ようは顔なのだ。
私はあまり写真をとらない。顔もとらないし、自分というものをあまりとらない。そしてそれをツイッターにもあまりあげない。意図的にとってあげるときはあるが、それはかなりあざとい顔になっている。なぜなら自意識がすごいから。自分の顔をとって得意気になってるところを人に見られるのが恥ずかしいじゃないか。
優しい人とはなんだろう。いろんな考え方がある。一つではない。自分以外のだれかの写真をたくさんとれる人、それはなんだか優しいような気がするのだ。ひとの結婚式の写真を撮影して、それを新郎新婦に現像するなりデータなりで渡せるひと、そんな人がいるのだ、この世に。
それはとても優しい。ケーキカットの写真がどうしたというのだ、なんてことを思う私は邪悪。ケーキを作るならわかるが、切るだけで何を値打ちこいとるねん。ま、絶好のシャッターチャンスやと司会の方がいうから、こういうのはスマホでいいから撮影に行こうとするのが大人なんだろうとおもい、近くにまでいくが、正味の話結婚式の時私はべろべろによっていて、帰りゲームセンターでも行こうかなんてことを考えているのだ。
なぜ私は帰り道にゲームセンターによるのだろう。すること言えばクレーンゲームだけなのに。
ゲームセンターにプリクラがある。
あれ楽しいか、と思うが、これからプリクラをとろうとする人は幸福そうな顔している。財布をおとしたという顔の人はあまりゲームセンターにいかないし、プリクラにお金を投じようとはしない。
いろいろいったが、何が言いたいかというと、写真をとる人はやはり幸福なのだろう、と思う。写真をとらない人生よりもとる人生のほうがなにやら幸福な気がするのだ。写真と縁遠いから不幸というわけではないが。
私の若いころの写真は少ない。ほんと少ない。こんな性根だからおのず少ない。
ふと思うのだ。私は昔からこんなに足の裏ががさがさだったのだろうか、と。足の裏の写真をとっておけばよかった。
斉藤和義さんの僕の踵はなかなか減らない、という名曲がある。歌詞はいまいち何を言いたいのかわからないが、なにせ恰好がいい。そして踵が減らないのだ、きっと。転じて私のかかとはがさがさのがちがちだ。このがちがちのがさがさの踵を写真いとってアップしようか。しないよ。踵をアップしようという自意識。これもこれで厄介じゃないか。ぐるぐると思うわりにものぐさな人間はことに写真をとらない。
それはそうと、なによりかにより、コントライヴの予約コメントおまちしております。
三木あきら関本佳史コントライヴ「おねおねだね」
会場 大阪市中央区千日前2-3-9味園ビル2Fライヴシアター白鯨
2019年6月22日土曜日
開場19時開演19時30分
出演者 三木あきら 関本佳史
前売り2000円 当日2600円 共にワンドリンク付き
おねおねとしたオムニバスコントと漢方おねおね放送局の公開収録
お問い合わせ先 zubuno_zubuno@yahoo.co.jp
ツ離れしたいな。依然ツ離れしないからツ離れしたいな、といっているわけです。
未来予想図という歌があります。私には実にしゃらくさい歌ですが、名曲といわれるのもうなづけます。卒業してからもう3度目の春。
実に若者の心とらえていますな。それが大学なのか、専門学校なのか、サラリーマンなのか、勤めでも学生でもない立場なのか、そこはわかりませんが、新しい生活をむかえ、少しその生活がなれたころに昔を思う、そういうのはあるのです。
この未来予想図という歌をうたっているのがドリームカムトゥルー。通称ドリーファンク。嘘。ドリーファンクはプロレスラー。ドリームカムトゥルーはドリカムといわれています。
ドリカムの曲はなにやら写真というワードが多くでてくる気がします。詳しくは検索してください。
ここから何が言えるかというと、80年代90年代は写真が特別だっということです。特別な時に特別な瞬間を切り取る。それが写真だっとのです。銀塩とよばれた昔ながらの機械式のフィルムのカメラ、高価なカメラをかわずして比較的安価で購入することができた「映るんです」をはじめとするインスタントカメラ、ポラロイド、さまざま様式のカメラがあったが、どうころんでもカメラであった。現像するには金がかかる。デジタルカメラで現像は自宅でできるとなってもそこまでカメラが日常に根付くことはなかった。
写真が生活の一部になった背景には、スマートホン、そこからくるインターネットにおける写真のアップがあるだろう。
写真は撮影だけでは終わらない。やはり発表したいのだ。現像して学校、会社など、属する社会で見せる。それはそれで幸福なのだが、発表に手間がかかる。SNSは発表が容易だ。現像しなくていいし、持ち運ばなくてもいい。
今、ドリカムが歌ったほどに写真は特別ではなくなった。そこの未来予想はできなかったわけだ。だが、30年前にこの写真の世界の広がりを予想できるわけがない。
自分で自分をとる。いかようにうつるか。これ、ここに自意識がでる。
自分がいい感じに映る角度を意識し、自分でとる。そこに自分がいる。
自分が何時何をしたかを表現し、発表する。そのときの顔だ。
海に行ったときの自分の顔、ユニバーサルスタジオジャパンにいったときの自分の顔。だいたいが顔だ。ユニバーサルスタジオジャパンで一日歩いて臭くて臭くてしょうがなくなった自分の足の裏を写真にとり発表する人はあまりいないし、いたとしてもあまり人気ものにはならないだろうし、そんなことしてなにが楽しいのかよくわからない。
ようは顔なのだ。
私はあまり写真をとらない。顔もとらないし、自分というものをあまりとらない。そしてそれをツイッターにもあまりあげない。意図的にとってあげるときはあるが、それはかなりあざとい顔になっている。なぜなら自意識がすごいから。自分の顔をとって得意気になってるところを人に見られるのが恥ずかしいじゃないか。
優しい人とはなんだろう。いろんな考え方がある。一つではない。自分以外のだれかの写真をたくさんとれる人、それはなんだか優しいような気がするのだ。ひとの結婚式の写真を撮影して、それを新郎新婦に現像するなりデータなりで渡せるひと、そんな人がいるのだ、この世に。
それはとても優しい。ケーキカットの写真がどうしたというのだ、なんてことを思う私は邪悪。ケーキを作るならわかるが、切るだけで何を値打ちこいとるねん。ま、絶好のシャッターチャンスやと司会の方がいうから、こういうのはスマホでいいから撮影に行こうとするのが大人なんだろうとおもい、近くにまでいくが、正味の話結婚式の時私はべろべろによっていて、帰りゲームセンターでも行こうかなんてことを考えているのだ。
なぜ私は帰り道にゲームセンターによるのだろう。すること言えばクレーンゲームだけなのに。
ゲームセンターにプリクラがある。
あれ楽しいか、と思うが、これからプリクラをとろうとする人は幸福そうな顔している。財布をおとしたという顔の人はあまりゲームセンターにいかないし、プリクラにお金を投じようとはしない。
いろいろいったが、何が言いたいかというと、写真をとる人はやはり幸福なのだろう、と思う。写真をとらない人生よりもとる人生のほうがなにやら幸福な気がするのだ。写真と縁遠いから不幸というわけではないが。
私の若いころの写真は少ない。ほんと少ない。こんな性根だからおのず少ない。
ふと思うのだ。私は昔からこんなに足の裏ががさがさだったのだろうか、と。足の裏の写真をとっておけばよかった。
斉藤和義さんの僕の踵はなかなか減らない、という名曲がある。歌詞はいまいち何を言いたいのかわからないが、なにせ恰好がいい。そして踵が減らないのだ、きっと。転じて私のかかとはがさがさのがちがちだ。このがちがちのがさがさの踵を写真いとってアップしようか。しないよ。踵をアップしようという自意識。これもこれで厄介じゃないか。ぐるぐると思うわりにものぐさな人間はことに写真をとらない。
それはそうと、なによりかにより、コントライヴの予約コメントおまちしております。

